謎の神 櫛真智命を考察する(3)
いよいよ天香久山に入って以降の櫛真智命の考察に移るわけですが、この時代は考古学的資料は十分ではなく、文献的資料としては古事記と日本書紀に頼るほかありません。
「古事記」に見る権勢の移行
まず古事記から考えていきます。場面としては「天岩戸隠れ」の部分を考えていきます。大筋としては、この場面は先行して大和国に入っていた素戔嗚命に代表される出雲勢力から、遅れて大和国入りした伊勢の天照勢力に権勢が移行する様子が描かれています。この場面において、古事記の説話と、天香久山の祭神などを合わせて考慮すると、どうやら櫛真智は太祝詞を神事によって降ろし、それを天児屋命に授けたようです。
「天岩戸隠れ」と権力移行の実際
神話の中で天岩戸隠れの場面は短い時間で終わったように描かれていますが、実際は権力の移行には、新しいヘゲモニーを確立するためには、常識的に考えてしばらく時間がかかったはずです。著者とされる稗田阿礼(ひえだの あれ)は当然、伊勢の天照の勢力に仕えているため、天照の系譜は天津神として上げて描かれます。出雲勢力は国津神として一段下げて描かれます。
技術者としての神々
天岩戸隠れに集まった他の神たちについても考察して見ると、皆権勢を極めたというよりも、当時として希少な技術に秀でた技術者だったという印象があります。当時の国家的認証に関わる必要な技術者で、彼らを抑えれば国家の中心的存在として広く同意が得られるという訳です。ともかく、多くの才能が集まり、伊勢の勢力に権勢が移行し、日本という国がまとまりました。
古事記編纂の時代と天岩戸隠の時代の違い
古事記編纂の時代と天岩戸隠れの時とで最も大きな違いは東方の神に対する見方でしょう。当時は才能あるものが大和国に集まるのは当たり前のことで、櫛真智も特に霊的な直観力に秀でた見霊者として、そういった受け入れ方をされていたはずで、そこには東方の神といえども排斥されるような事はなかったと思います。当時はそれで構わなかったのでしょう
しかし時代が下り古事記編纂の時代になると、伊勢の神の絶対優位性は明らかで、天津神(伊勢)、国津神(出雲)という位づけが確立されました。それに加えてこの時代は東方(関東)は征服される対象ですらありました。東方は劣後する対象になった、というのが時代の変化です。
櫛真智命の名が記されなかった理由
そのような東方由来の神に神道の根幹たる太祝詞を降ろされたとなると、神道の最重要の権威が東方の神に認証された事になって、それは後世にとってあまり都合が良くない事になったのだろうと思います。これが櫛真智の名が古事記に記載されなかった理由の一つなのではないかと思います。以上が今回の考察です。
次回の考察へ
しかし話はこれで終わりではありません。このことだけなら櫛眞知も含めて一切を無かったことに出来たはずなのですがそう出来ない理由がもう一つあったのだろうと思います。それは櫛眞知命と天児屋命の関係性についてです。次回はこちらを考察します。
続きます。